研究の自由を守る化学物質リスクアセスメント

―なぜ必要か、どう考えるか

寄稿:貴志 孝洋(筑波大学 環境安全管理室 准教授)

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「規制」と「研究の自由」は本当に対立するのか

研究者の中には、「規制やルールが研究の自由を奪う」と感じる方もいるかもしれません。実験前にSDS(安全データシート)を確認する、使用量や作業条件を整理する、保護具を選ぶ、リスクアセスメントを記録する―これらは、研究そのものとは別の「面倒な作業」として受け止められがちです。しかし、安全衛生管理は本当に研究の自由と対立するのでしょうか。

ここで、大きな事故が起きた研究室を想像してみてください。実験は止まり、学生や研究者が傷病を負い、装置が損傷し、場合によっては研究室そのものが閉鎖されます。事故調査や対応に多くの時間を奪われ、社会的な信用も損なわれます。そのとき失われるのは、「安全衛生」だけではありません。研究の継続性そのものです。

安全衛生が確保されているという土台があるからこそ、研究を続けることができます。研究を続けられるからこそ、自由に挑戦できます。そして、挑戦を続けられるからこそ、創造的な成果が生まれます。

このように考えると、化学物質リスクアセスメントは、研究を止めるための手続きではなく、研究の自由を守り、挑戦を続けるための基盤です。

事故は、遠い国の他人事ではない

2008年、米国UCLAの研究室で、空気に触れると自然発火し得るtert-ブチルリチウムの取扱い中に火災が発生し、23歳の研究員が重度の熱傷を負い、亡くなりました。

この事故では、危険性の高い試薬の取扱い、保護具の選択、教育訓練、作業監督、安全管理体制などが大きな論点となりました。すべての研究室でtert-ブチルリチウムのような試薬を扱うわけではありませんが、ドラフト外での有機溶媒の小分け、酸やアルカリの飛散、保護具の不適切な選択、加熱機器や火気の近くでの可燃性溶媒の使用など、よく似た構造は多くの研究室に存在します。

危険な試薬を扱う。保護具を選ぶ。新しいメンバーに作業を任せる。慣れた手順を繰り返す。これらは、どの研究室にもある日常です。

重大な事故が起きたときに失われるのは、一人の安全だけではありません。研究室の未来、組織の信用、積み上げてきた研究活動にも大きな影響が及びます。

事故は、研究のすべてを止めうる―この認識が、化学物質リスクアセスメントを考える出発点となります。

なぜ研究室事故は起こるのか

事故の原因は、しばしば「知識不足」として説明されます。もちろん、知識不足は重要な要因です。しかし、それだけではありません。

  • リスク認識の不足:危険を「知っている」ことと、それを「自分の作業に潜むものとして認識している」ことは異なります。SDSに危険有害性が書かれていたとしても、それが自分の実験条件でどのように現れるのかを考えていなければ、リスクは見えないままです。
  • 慣れによる形骸化:毎日扱う試薬ほど、当初の緊張感は薄れ、チェックが手順だけになってしまい、その意味が空洞化することがあります。
  • 「大丈夫だろう」の蓄積:前回も大丈夫だった。今回もおそらく大丈夫だろう。その小さな成功体験が積み重なると、本来は許容できないはずのやり方が、いつの間にか「普通のやり方」になってしまいます。

最後の「大丈夫だろう」の蓄積が最も厄介な原因かもしれません。このような現象について、社会学者Diane Vaughanは、スペースシャトル「チャレンジャー号」の事故分析を通じて「逸脱の常態化(normalization of deviance)」として指摘しています。危険な逸脱が、繰り返されるうちに少しずつ「許容範囲内」とみなされ、組織の標準になっていくのです。

このような状態では、事故が起きていないことが、そのまま安全の証明のように扱われてしまいます。しかし、事故が起きていないことと、安全に管理できていることは同じではありません。事故は確率の問題であり、「大丈夫だろう」を10回繰り返して10回無事だったとしても、それは安全だった証明ではなく、たまたま当たりを引き続けていただけかもしれません。

リスクアセスメントは、この「大丈夫だろう」を問い直し、見えにくいリスクを見える形にするための活動でもあります。

なぜ化学物質リスクアセスメントを行うのか

リスクアセスメントに、万能の手法は存在しません。どのような研究室にも、どのような作業にも、完璧に当てはまる魔法のツールはありません。また、チェックシートを埋めることや特定のツールに入力することは、リスクアセスメントを支援する手段ではありますが、それ自体がリスクアセスメントの本質ではありません。

では、本質は何か。リスクアセスメントとは、「何が起こり得るかを考え、それを許容できる状態に管理するための思考プロセス」です。

言い換えれば、リスクアセスメントは、リスクをゼロにする活動ではありません。ゼロリスクは存在しません。だからこそ、何が起こり得るかを想像し、どこまでなら許容できるのかを考え、必要な対策を講じる。その思考こそが、リスクアセスメントの核心です。

リスクアセスメントを考えるための4つの問い

では、実際に化学物質リスクアセスメントは、どのように考えればよいのでしょうか。難しい計算から始める必要はなく、重要なのは「何が起こり得るか」を想像することです。

ここでは、化学物質リスクアセスメントを考えるための4つの問いを示します。

問い①:どんな危険有害性を持っているのか?

まず、取り扱う物質が「そもそもどんなリスク事象を引き起こし得るのか」を知ることから始めます。ここで頼りになるのが、SDSです。SDSには、化学物質ごとの危険有害性や取扱い上の注意が記載されています。

確認すべき性質は、大きく2つに分けられます。一つは、主にモノや設備に作用する危険性(引火性、爆発性、酸化性、金属腐食性など)。もう一つは、主にヒトの健康に作用する有害性(急性毒性、発がん性、皮膚腐食性、生殖毒性、特定標的臓器毒性など)です。まずは、「この物質は燃えるのか、爆発するのか、人体に何をするのか」を押さえることが出発点となります。

問い②:どのような場面でリスク事象が顕在化するのか?

危険有害性は、それ自体では事故になりません。特定の作業場面と出会ったときに、初めて現実のリスク事象として顕在化します。

たとえば、アセトニトリルであれば、蒸気を吸入する、皮膚に付着する、火気で引火するといった場面が考えられます。塩酸であれば、飛散して皮膚や眼に付着する、ミストを吸入するといった場面が考えられます。つまり、「物質の性質」だけではなく、「作業のやり方」と組み合わせて初めて、リスク事象の輪郭が見えてくるのです。

問い③:どの程度のリスクになるのか?

同じ物質であっても、扱い方によってリスクの大きさは変わります。考慮すべき主な要素には、使用量、使用頻度、作業時間、換気状況、保護具の種類、火気の有無、使用場所、作業者の経験などがあります。

少量の化学物質を、よく換気された場所で、適切な保護具を着用して短時間だけ扱う場合と、大量の化学物質を、換気の不十分な場所で、長時間扱う場合とでは、リスクはまったく異なります。この当たり前を、意識的に見える化することが重要です。

問い④:どのような対策が考えられるのか?

リスクを下げる対策には、一般に、より効果の高い対策から検討するという考え方があります。たとえば、

  • より危険有害性の低い物質や方法に置き換える
  • 危険源を密閉する
  • 局所排気装置などで有害物質を作業者から遠ざける
  • 作業手順を定めてばらつきを減らす
  • 保護眼鏡、手袋、保護衣、呼吸用保護具などを適切に選ぶ

といった対策が挙げられます。

保護具は重要ですが、「保護具を着けているから大丈夫」と考えるのではなく、まずは危険有害性そのものを下げられないか、作業者との接触を減らせないかを考えることが重要です。ただし、この優先順位は「検討の順番」であって、「実施の順番」まで縛るものではありません。実際の研究現場では、コストや設備、研究内容の制約から、まず保護具や作業手順の整備から着手し、上位の対策へ段階的に近づけていくことも現実的な選択です。大切なのは、上位の対策を検討したうえで選ぶこと、そして「いつかはより上位の対策へ」という方向を手放さないことです。リスクアセスメントは、理想的な順番を教科書どおりに実現することではなく、現実の制約の中で、どこまでリスクを下げられるかを考えるプロセスでもあります。

研究者にとってのメリット

リスクアセスメントは、安全衛生のためだけのものではありません。研究そのものにも関係する活動です。

  • 実験計画が整理される:何を、どれだけ、どのような条件で扱うのかを書き出す過程で、実験計画の解像度が上がります。
  • 再現性の確保に役立つ:使用条件が記録として残るため、同じ条件を再現するための情報が手元に残ります。
  • 引継ぎがしやすくなる:人が入れ替わる研究室では、暗黙知を形式知に変えることが重要です。リスクアセスメントはその助けとなります。
  • 研究継続性が高まる:事故による中断リスクそのものを下げます。

このように、リスクアセスメントは「安全衛生のために仕方なく行うもの」ではなく、研究を整理し、共有し、継続するためにも役立つ活動です。

まとめ:リスクアセスメントは、研究の自由を守るための思考プロセスである

ここまで述べてきたように、そもそもリスクアセスメントは、研究を止めるための活動ではありません。研究を継続し、挑戦し続けるための活動です。

事故が起きれば、研究そのものが止まります。装置が使えなくなり、実験室が使用停止になり、学生や研究者の健康が損なわれ、組織の信用も失われます。事故の背景には、知識不足だけでなく、リスク認識の不足、慣れによる形骸化、「大丈夫だろう」の蓄積、そして「逸脱の常態化」があります。リスクアセスメントの本質は、リスクをゼロにすることではありません(ゼロリスクは存在しません)。何が起こり得るかを想像し、どこまでなら許容できるのかを考え、必要な対策を講じる―その思考プロセスこそが、リスクアセスメントの核心です。

4つの問い(危険有害性・顕在化場面・リスクの程度・対策)に答えることで、化学物質リスクアセスメントを始めることができます。そして、化学物質リスクアセスメントは安全衛生のためだけのものではありません。実験計画の整理、再現性の確保、引継ぎのしやすさ、研究継続性の向上など、研究そのものにもメリットがあります。

このように、化学物質リスクアセスメントは、研究の自由を守り、挑戦を続けるための基盤でもあるのです。

後編はこちら:化学物質リスクアセスメントを日常業務にするには―Jikken Noteによる研究活動と安全衛生管理の連携

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