化学物質リスクアセスメントを日常業務にするには
―Jikken Noteによる研究活動と安全衛生管理の連携
寄稿:貴志 孝洋(筑波大学 環境安全管理室 准教授)
本記事は、化学物質リスクアセスメントを研究活動に定着させるための一つの考え方として、Jikken Noteの活用可能性を紹介するものです。特定サービスの導入効果を保証するものではなく、実際の運用は各研究機関・研究室の状況に応じて検討する必要があります。
「続ける難しさ」から「連携」へ
前回、リスクアセスメントの本質は「何が起こりうるかを思い浮かべる力」であり、4つの問いに答えていくだけで誰でも始められる、と述べました。考え方そのものは、決して極端に難しいものではありません。難しいのは「続けること」です。
現場では、
- 記録が残らない
- 評価の根拠が共有されない
- PIや研究室管理者が把握しにくい
- 報告書作成が負担になる
- 継続的な運用が難しい
といった壁にぶつかりやすいのが現状だと思います。化学物質リスクアセスメントの課題は、「考え方を理解すること」だけではなく、研究活動の中で、「無理なく続けられるかどうか」ではないでしょうか。つまり、無理なく続けるための仕組みが必要であるということを意味しています。
本来、研究活動と安全衛生管理活動は、別の目的を持つ活動です。研究活動には、実験計画→実験実施→実験記録→結果解析→論文・発表・成果化といった流れがあります。一方、安全衛生管理活動には、危険有害性の確認→リスクアセスメント→対策実施→教育・指導→記録・報告→見直しといった流れを含んでいます。
目的が違うため、これらを無理に一つに溶かし込む必要はありません。研究活動は研究活動として重要であり、安全衛生管理活動は安全衛生管理活動として必要です。ただし、両者が扱う情報には共通する部分が多くあります。
たとえば、研究活動の中では、使用した化学物質、使用量、使用頻度、実験条件、使用場所、作業時間、使用した装置や器具などが記録されます。これらは、化学物質リスクアセスメントやばく露推定、報告書作成にも関係する情報です。
しかし実際には、実験ノートに書いた情報が、安全衛生管理側にうまく引き継がれず、別の様式に再入力されることが少なくありません。一度書いたはずの情報を、もう一度書き直す。この二重入力こそが、リスクアセスメントを「面倒な仕事」にしている大きな要因です。
目指すべきは、研究活動と安全衛生管理活動を混ぜ合わせることではなく、両者を有機的に連動させることです。「研究のために記録した情報が、安全衛生管理にも活かされる」、「安全衛生管理のために整理した情報が、研究室内の教育や引継ぎにも役立つ」、そのような循環をつくることが、リスクアセスメントを日常業務に近づけるための鍵となります。
Jikken Noteが支援し得ること
こうした課題に対し、Jikken Noteは、研究活動と安全衛生管理活動の連携を支援する仕組み、つまり両者の切れ目をつなぐことを目指す仕組みでもあると言えます。一言でいえば、「書いたものが生き続ける実験ノート」と捉えることができます。
- 紙に書いた実験記録をそのまま活かす:手書きの実験ノートをOCRでデジタルデータ化できれば、研究者はいつもの記録方法を大きく変えずに、情報を残しやすくなります。重要なのは、「デジタルのために入力し直す」のではなく、「すでに書いた記録を活かす」ことです。
- データが整理され、見える形になる:蓄積された実験記録から、使用した化学物質、使用量、実験頻度、実験条件、使用場所などが把握しやすくなります。これらは、研究データとしてだけでなく、化学物質リスクアセスメントを考える際の材料にもなります。
- その情報が、安全衛生管理に活用できる:実験記録として残された情報を、簡易的なリスクアセスメント、ばく露推定、報告書作成などに活用できれば、同じ情報を何度も入力する負担を減らせる可能性があります。これにより、リスクアセスメントは「研究とは別に発生する仕事」から、「研究活動と連動した日常業務」へ近づいていくことが期待されます。
PIや研究室管理者にとっても、個々の研究内容を過度に妨げることなく、研究室全体としてどんな化学物質が、どの程度、どんな条件で扱われているのかを把握しやすくなることから、大学への報告という「見えない残業」を減らすことにもつながるものではないでしょうか。
ただし、ツールは「答え」ではない
ただし、Jikken Noteを使えばリスクアセスメントが自動的に完了する、という理解は適切ではありません。
リスクアセスメントの本質は、あくまで「何が起こり得るかを考え、それを許容できる状態に管理するための思考プロセス」です。Jikken Noteは、その思考プロセスを記録し、共有し、継続しやすくするための支援基盤として位置づけるべきツールです。
たとえば、OCRには読み取り誤りがあり得ます。また、実験ノートに必要な情報が書かれていなければ、それを安全衛生管理に活用することはできません。使用量、頻度、場所、作業時間、換気状況、保護具の使用状況など、リスクアセスメントに必要な情報を、日常の記録の中にどう組み込むかが重要となります。
AIによる整理や分析も、判断を補助するものとして扱う必要があります。出力された結果をそのまま正解とみなすのではなく、研究者やPIが内容を確認し、必要に応じて修正する運用が欠かせません。
つまり、ツールを導入するだけではリスクアセスメントは定着しません。記録すべき項目を決めること、確認のタイミングを決めること、PIや研究室管理者が必要に応じて確認できる流れをつくること。こうした運用設計があって初めて、Jikken Noteのような仕組みは力を発揮します。
研究室内の共通言語として活用する
リスクアセスメントは、PIや安全衛生担当者だけの仕事ではありません。実験を計画する者、実際に作業する者、指導する者、研究室全体を管理する者が、同じ情報をもとにリスクを考えるための共通言語です。
Jikken Noteのような仕組みによって、実験記録と安全衛生管理に関わる情報がつながれば、研究室内で「何をどのように扱っているのか」「どのようなリスクがあり得るのか」「どのような対策が必要なのか」を共有しやすくなります。
特に、人が入れ替わる研究室では、暗黙知をどのように引き継ぐかが大きな課題となります。過去の実験記録やリスクに関する判断が残っていれば、新しいメンバーへの教育や、PIによる確認にも活用しやすくなります。
このように、Jikken Noteの価値は、単に「記録をデジタル化すること」だけではありません。研究活動の中で生まれる情報を、研究室全体の安全衛生管理にも活かしやすくする点にあります。
まとめ:リスクアセスメントを、研究活動を支える日常業務へ
化学物質リスクアセスメントは、研究を止めるための活動ではありません。研究を継続し、挑戦し続けるための活動です。
そのためには、リスクを考える力だけでなく、考えたことを記録し、共有し、振り返り、継続できる仕組みが必要となります。
リスクアセスメントは、研究活動から切り離されたときに、難しい専門業務に見えやすくなります。しかし、研究活動と安全衛生管理活動を適切につなぐことができれば、リスクアセスメントは「やらなければならない仕事」から、「研究活動を支える日常業務」へと変わっていきます。
Jikken Noteは、その橋渡しを担う仕組みの一つとして、研究活動と安全衛生管理活動を有機的に連動させる可能性を持っています。
重要なのは、Jikken Noteを「リスクアセスメントの答え」として扱うことではありません。研究者、PI、組織がリスクを考え続けるための情報基盤として活用することです。
そのような位置づけで活用できれば、化学物質リスクアセスメントは、より無理なく、より継続可能な日常業務へ近づいていくと期待しています。
